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曹操注解 孫子の兵法

松下政経塾へ(1)

松下政経塾へ行こう☆☆☆その1

昨日の中国大使館主催のパーティーは盛大であった。

自民党の中川国対委員長、公明党の冬柴幹事長も王毅大使個人の人脈である。閣下も挨拶する。

意外かも知れないが、ワシは松下政経塾の仲間と、新進党の政策をやっていたから、永田町十全会ビルの鳩山邦夫事務所にあった新進党東京都連で公明党幹部と一緒に仕事をしたのだ。
菩提寺は真言宗だがな。

曹操閣下が陸軍武官と本の売れ行きを話していると、目の前を日本共産党の不破元委員長や、社民党の土井元委員長が通り過ぎていく。
実は、閣下も知らないわけではない。
「紹介しましょうか」といったら、笑って「いや、いいですよ」

鳩山元民主党代表が来た。
閣下が挨拶すると、陸軍武官は「ぜひ紹介してください」と。

このように、外交というのは面白いものだ。
ワッかるかな。ハッハッハッ。

逢沢一郎外務副大臣は留任し、このパーティーにも来ていた。
ワシは挨拶し、握手していった。

「ヨルダンの成功が効きましたねーっ」
「駐ヨルダン日本大使館まで激励のメールをいただきましたね。ありがとうございました」

逢沢副大臣は、あのイラク人質事件の時、ヨルダンの首都アンマンに飛んで、外交努力を展開した。

ワシはメールでアドバイスした。

「ヨルダン国王はマホメットの子孫の直系、クライシユ族ハシム家の首長だから、アラブ全体に宗教的権威がある。イラクの問題だが、国王の権威に頼り、人質事件の不当性をアピールすれば、犯人グループを宗教的に改心させ、無条件に釈放させる可能性もある」

このアドバイスは当たった。
人質は解放された。
それには理由があった。
ワシも後で知ったことなのだが、逢沢副大臣と応接していたヨルダン王室の侍従長は、フセイン政権のクーデターで国外亡命したイラク王家の後継者だったのだ。(!!!)

逢沢副大臣は当選6回。
松下政経塾一期生、政経塾で最初に衆議院議員に当選した人である。
本当ならば、逢沢さんが自民党内閣で最初の大臣になると言われていた。年功序列でいえば。
しかし、そうはならなかった。

逢沢さんは宮澤喜一さんが総理になる前の宏池会(宮澤派)から初当選した。それからはずっと加藤紘一さんの若手側近として活躍してきた。

ところが、政界の逆転劇がここから起きる。
小澤一郎さん、羽田孜さんのグループが反乱を起こし、宮澤内閣の不信任決議案が可決され、自民党竹下派が分裂する形で新生党ができた。今の民主党の岡田代表もその中にいた。
埼玉の朝霞で落選を重ねていた上田清司さん(現・埼玉県知事)と、神奈川県議会議員だった政経塾三期生の松沢成文さん(現・神奈川県知事)も、この大乱に合流した。

宮澤総理は解散・総選挙にうって出たが、その時に「日本新党ブーム」が起き、政経塾のメンバーが続々当選した。

逢沢さんの同期生の野田佳彦さん(民主党前国対委員長)、
ニ期生の山田宏さん(現・杉並区長)、長浜博行さん(現・衆議院議員)、
五期生の伊藤達也さん(現・大臣閣下)、高市早苗さん(現・近畿大学教授)、
八期生の前原誠司(民主党next外相)さん、玄葉光一郎さん(民主党選対委員長)、
そして十期生の中田宏(現・横浜市長)などは、この時に当選した顔ぶれである。

自民党から出馬、当選したのは、逢沢さんと同期の元愛媛県議会議員だった小野晋也さんぐらいだったか。
小野さんは、その前の選挙で県議を辞職して落選し、長い選挙浪人生活で最愛の奥さんの健康を壊してしまった。
当選後、まもなく奥さんは急性ガンの悪化で亡くなられた。

逢沢さんは、仲間や後輩の政界進出を心から喜んだであろう。
それは今日にいたるまでの与野党を問わない超党派活動をみてもわかる。
前の総選挙で、直前になってマニュフェストが導入されたのは、自民党側の逢沢代表、民主党の玄葉代表の交渉に、公明党が全面的な賛成をしたからである。
そして日本史上、初のマニュフェスト選挙となった神奈川知事選挙で当選したのが、松沢知事(現)なのだ。

しかし、ワシだったら、おそらく我慢はならんだろう。
仲間や後輩がことごとく自分とは反対の政党で当選してしまうなどということは。


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